原美術館に「米田知子展」を見に行った。米田さんはロンドンに拠点を構えて活動する写真家で、昨年はヴェネツィア・ビアンナーレにも出展している。今回の原美術館の展覧会は彼女の作品を初期から最新作までが集められた内容で、米田知子という作家を知らなくても彼女の活動の全容を(大まかに)知ることのできる展覧会となっている。ちなみにあたしは存じ上げなかった。初めて写真を拝見した時、撮影対象と距離を置いて観察するような視点とそこに写された情景のなにげない具合がとても印象的だった。好みでいえば、どこにでもあるようななにげないよう情景なのになにげなくなさを感じさせる写真というのは好きなのだが、彼女の写真も、その写真が何かを言いたいようなモゾモゾとした触感があった。しかし、その写真は何事かを隠しているわけではなく、タイトルを見れば一目瞭然だったのだ。なにげない風景は、過去に歴史の舞台となった場なのである。
今回の展覧会のタイトルは「終わりは始まり」。こういう時代だからこそ、オプティミスティックに希望をもつような作品をつくりたい、と米田さんは言う。各シリーズについてメモ書きを記します。
■トポグラフィカル・アナロジー
アパートの1室と思われる壁の、熱でゆがんだ部分やめくれた壁紙などを切り取った写真。場所性はなく、名もなき人たちの生活の痕跡と時間の流れを忠実に撮影している。しかし窓の位置等は変わっていないので、光などの映像に対する条件は当時のままだ。このシリーズの中の「ボードルーム」という作品だけ、床に何かが散らばっていた。撮りたい空間との対話の方法として、当初は自分が持ち込んだ物を並べ、フィクションを作っていたのだという。しかし、作り込まなくても建物に記憶が残っており、それを撮ればいいことに気づいた。彼女が終始意識しているのはトランジションだ。
■シーン
このシリーズは「一見なにげない山野・海浜・市街地などの情景(=scene)を写した」作品であり、その舞台は「歴史の一齣の舞台となった場所、国家・民族・社会の集団的記憶と結びつく地点」だ。例えば
キャパの写真でも有名なノルマンディ上陸作戦の海岸は、現在はよくある観光ビーチとなっている。北朝鮮を臨む中国の半島から撮った写真には小さな結婚式のボートが映っている(国境の橋を撮ろうとしていたら、たまたま通りかかったらしい)。またサラエボのサッカー場は地雷原であり、ベンチでカップルが語らう場所は韓国の非武装地帯。深い森はソンムの戦いがあった森であり、上に向かう砂利道が伸びる南国の道は、サイパン島玉砕の崖に向かう道……という具合に、なにげない風景は負の歴史を背負った場所だった。ちなみにサイパン島の作品は、
藤田嗣治の戦争画
(『サイパン島同胞臣節を全うす』)を見て、そこの場を見たくなったそうだ。このテーマは今後も続けていくであろうものだという。一連の作品は、展覧会のタイトルでもある「終わりは始まり」(始まりは終わり)を端的に示している。
まだ途中だけど出かけるので、続きはあとで。