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# “ひゃー権”を強引に守る会
何かに対して賛成か反対かを考える時、あたしは瞬時に自分にとって都合かいいか悪いかを考える。都合が悪いと判断すれば、反対!と口にする。質問の答えをすぐには求められていない場合、一応は自分と反対側の意見にも耳を傾ける。でも、知識も思考能力もない上に優柔不断なので「なるほど、一理あるけど」と単純に思う。そういう人間に対しては、センセーショナルな言葉を持っていた方が効く。勝つ。選挙なんてその最たるもののひとつだろう。

あんまり新聞を読まないので、政治的な話をするのは気が引けるのだが、ここ数年で「えー!それ反対かもーー!」と思ったのは、現段階ではギリギリの段階の話ではなくなったけれども、独身税と共謀罪だった。前者がイヤだと思ったのは言うまでもなく自分が独身だからで、後者も自分に都合の悪い話に感じた。

あたしは調子に乗って言葉を発することが多々あり、だいたいここを読んでくださっている人はわかるだろうが、どこまで本気かどこまで本気じゃないのか自分でもよくわからない時がある。例えば、居酒屋で気心知れた友人と喋っていて、つい口が滑って調子のいいことを言ったとする。共謀罪反対派の意見を読むと、そんな一言も反社会的とみなされてしょっぴかれる可能性があるのだというのだ。それを読んだときに思い浮かんだ風景を書こう。自分が居酒屋で調子よく喋っていたところ、横から鋭い視線を感じ、ふとみると目があったその男らはナイフのような鋭さでスッと立ち上がり「我らは特高だ!」と名乗り、あたしは頭をつかまれ、テーブルのシメサバの上に顔を押し付けられながら、手を後でねじられ、乱暴に立たされて連れていかれる。もう生中5杯+芋焼酎3杯の酔いはどこへやら。無銭飲食はイヤだと小さな声で訴えながら外へ連れ出されるわけだ。まあ、拡大解釈していった場合の先にある話ではあるが、そんな光景が目に浮かんだ。そして、「蟹工船」の小林多喜二の拷問死が頭を過った。

そういえば最近どこの本屋に行っても「蟹工船」は平積みで、本当に「蟹工船」ブームなのだなと実感している。知的な人が集いそうな都心の大きい本屋ならばともかく、話題の書籍への感度すら鈍い地元の本屋でさえそれで、さらには割合でいえば都心をしのぐ勢いで平積みの本が減っていた。プロレタリアート意識を刺激したのか?都心の書店に集う知的な人々が知的好奇心やら社会問題への意識やらから読むのとはちょっとばかりわけが違うと思っている。例えば寅さんに「労働者諸君!」と呼びかけられるタコ社長&タコ印刷工場員たちが蟹工船を携えている状況を想像してみてほしい。勘付いている方もいるかもしれないが、あたしの名前の“タコ”は、このタコ社長やタコ印刷工場から拝借している。というのは真っ赤な嘘。ちなみに、うちの周囲はタコ社長やタコ印刷工場員ばかりが住むエリアではないのだけれど。余談終了。

秋葉原事件以降、ネット上で殺人予告をした人が複数捕まっているようだ。ここ数日「へえ、またか」と思うものの、見出ししか読んでおらず、その内容やそれに至る動機は知らない。おそらく実行に向かう現実的な予定はなく、なんかムシャクシャしたからとか、加藤が犯行に至った背景へのある種の共感だったとか、もしくは自分の閉塞感の吐露だったり、単なる愉快犯だったりするのだろう。ネットに書き込みをすることに対し、どこか感覚が麻痺しているケースもあるかもしれない。あの事件以降、通報も多くなっただろうし、監視も厳しくしているはずだ。そのことに対し、世間は今、好意的な気がしている。理不尽で残虐な事件は未然に防がれるべきだし、多くは防げるものだ。見知っていたのに動かないのは警察の怠慢だし、もしかしたら我々市民の怠慢でもあるかもしれない、と。

危機管理について反対を掲げる気は毛頭ない。そんなことで窮屈さを感じるようでは、あまりに認識が甘いといわれれば甘いのだろう。説教をされれば頭を垂れてその言葉を拝聴する。しかし、秋葉原以降、何かが3段階は進んだ。何かが何だかというのは、アレかもしれずアレかもしれずアレかもしれず…と考えているのだが、はっきりしたところはよくわからない。自分だけは絶対的に善人だ!自分だけは絶対的に正義だ!という考えの元に、何かが膨らんでいかなければいいなあと思っている。あたしは謙虚に自己都合の元、自分だけはしょっぴかれなけれたくないなあと考えているのだけれど。ついでにいえば、鳩山=死に神説が、どうしてそこまで問題にするほどのことなのかよくわからない。大きく分ければこれすらも、同じ流れの上にあるような気がしてならない。

感情を機動力に言葉を吐く場合ですら、せめて何を言ったかくらいは自覚した方がいい。吐いた後でもいいから、自分が吐いた言葉が何をもたらしたか、どう伝わる可能性があるかを想像して、ちょっとだけでも客観視するなりした方がいい。よく「言葉は道具だ」といわれるが、本当にそれ以下でもそれ以上でもないと思う。ただ、マニュアルのないツールだとも思う。そこにマニュアルを求めたり、全然違う道具の使い方をした場合、使った本人ですら、ひゃー!と思う事態になることがままある。みんなと同様、あたしの来た道のりなんて、ひゃーだらけだ。主に後者のひゃーだが、反省するひゃーもあれば、語っている最中から折り込み済みのひゃーもある。でもひゃーひゃーの機会すら奪われ、ひゃーひゃーも感じなくなるようなのはイヤ。ひゃーひゃーはないに越したことはないけれど、せめてひゃーひゃーの権利だけはもちたい。
| comments(2) | trackbacks(0) | 04:15 | category: 社会問題? |
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コメント
>鳩山=死に神説

 あんなにカップクの良い死に神というのはどうも落ち着きませんね。

 あと、秋葉原の件にしても宮崎勤にしても、どちらも知性を感じない。ああいう人間がある意味「犯罪予備軍のカリスマ化」するというのがゆるせないです。
 とりわけ猟奇殺人のカリスマというのは、レクター博士のように博識でなければいけない。知性のかけらもない人間を大きく取り上げることで、人を殺しさえすれば英雄になれるなんていう勘違いを起こさせてるように思いますね。

 これも不穏当な発言ですが。
| LSTY | 2008/06/23 7:08 PM |

>LSTYさん

たしかに太陽の下で蝶を追ってる死に神は
想像できませんね……。
LSTYさんのおっしゃる猟奇殺人っていうのは
趣味性の高い殺人とかアートのような殺人でしょうか。

あたしは何らかの思想に基づいた殺人=革命家か?
が、カリスマ化するのも理解できる(昔っぽい?)。
不満や閉塞感のはけ口というか矛先として殺人を犯した人間から見えるべきものは、たしかに英雄像ではないはずですね。
| タコ | 2008/06/24 12:37 AM |

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