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# 生涯最高のおはなし
よく本屋に行くと出版社が出している無料の文芸誌がある。暇つぶしによかろうと100%手にとる。で、部屋に放り出したり、湯船に浸かる時に読んだりしている。短編が多く、意外に何度も読んでしまう。捨てるタイミングを見失ったままに。

そのうちの一冊に高橋源一郎の恋愛小説があり、その中でカップルの男性の方が女性に向かって、昔読んだ本の中に出ていた愛し合う2人の会話を話して聞かせる場面があった。

「『さあ、今日はどんなことをしよう』と一人がいう。すると、もう一人は、『なんでも』と答えるんだ。
『なんでもじゃ、わからない』
『きみと一緒なら、なんでも』
『じゃあ、あらゆることをしよう』
『ああ、あらゆることをしよう』
二人は、そういって、あらゆることをした。思いつく限りのことは、なんでも。二人ができる楽しいことはすべて。二人以外のことはみんな忘れて、時間も忘れて、二人は、ただ好きなことをするんだ。夏の最後の日のことだった。一日が終わり、二人は、その日の出来事が始まった大きな樹の下に戻った。
『ぼくたちは、あらゆることをしたね』一人はいった。
『しなかったことがひとつだけあるよ』もう一人はいった。
『なにを?』
『なにもしない、ということだけはしなかったね』
『永遠に、これが続けばいいのにね』
『ああ』
『永遠に、二人で、あらゆることをできたらいいのにね』
『そうだね』
二人はそういって、別れるんだ。でも、また、その樹の下に戻ってくる。なぜなら、一鳥では完全ではないことを、二人はよく知っていたから」


ぐっとくるね。これ、実は、あたしが30年近く一番大好きな本でもある。こんな箇所あったっけ?と思って、週末に本棚から引っ張り出してみていたら、素敵な箇所を見つけた。

「プー, きみ朝おきたときにね, まず第一に, どんなこと, かんがえる?」
「けさのごはんは, なににしよ? ってことだな。」と, プーがいいました。「コプタ, きみは, どんなこと?」
「ぼくはね, きょうは, どんなすばらしいことがあるかな, ってことだよ。」
プーは, かんがえぶかげにうなずきました。
「つまり, おんなじことだね。」と, プーはいいました。


結局、まるまる読んでしまった。やっぱり最高なんだよ、この本は。あたしはプーになりたかった。
| comments(2) | trackbacks(0) | 23:35 | category: 本の話 |
# 石平をうっかり好きになりかける
「池袋ウエストゲートパーク」という小説で一躍売れっこ作家になったらしい石平さんは、ガッツリつくりこんだインテリアをよく雑誌等で披露しているらしい。そのインテリアは、よく見たことはないけど、とっても石平さんらしい趣味だなあと思ったことを覚えている。ちょっと今日、仕事中にオーディオを調べていたら、石平さんはオーディオもお好きなようで、あたしはまったく知識がないのでどの程度のものだかわからないのだが、まあ、一通り揃えていらっしゃるらしい。オーディオマニアの集まる掲示板に、石平さんの過去の発言の抜粋と思われるコピペがあった。それをまたコピペするのも憚られるのだが、内容はこうだ。本当に言ってるんだったらすごいな、と思った。内容はひどい。ひどいのだが、こんなことを言ってしまう石平さんは結構好きかもとも思った。もしかしたら長い間誤解していたのかもしれないと反省までした。

しかし、この発言(の一部)自体、どうやらデマらしいのよね。悪意のある捏造の発言で、ご丁寧に出典まであるんだけど、本当はその本にそんな発言は載ってないらしいという文章も読んだ。本当にそんな発言をしたかしてないかは、目にする多くの人にとってどうでもいいことなのだろう。あたしもこの件で、真偽を確かめようとは思わない。本人にとっては有難くないことだろうし、造った人は、いかにも裏で言ってそうだと思って造ったのかもしれないし、もしかしたら本当に言ったのかもしれない。

でも、昼間にこれを見た時に石平さんを見直してしまったあたしは、デマだと知って脱力した。石平さんは、きっとあたしが今日の午前中までイメージしていた石平さんのままなのだろう。で、そのあたしの石平さんのイメージというのは、雑誌でちょろちょろ見たり、雑誌に載っていたエッセイをちょろちょろ読んだりという程度の印象で、一番鮮烈に覚えている石平さんのイメージというのは中原昌也の短編「血を吸う巨乳ロボット」の石平だというのも問題だ。随分前に立ち読みしたものだから忘れたけど、向かいの部屋でセックスに興じる男女の姿を見ながら、本当は暴力的な性の嗜好をもつ石平が、世間が自分にもつクリーンなイメージと葛藤するような……なんだ、そりゃ。単行本では主人公の名前は石平ではなくなっているのだが。決して好きではないのに、なぜか気になるヤツ、石平。実は好きなのだろうか……。石田衣良が売れっ子作家である限り、あたしはこんな思いを抱えて生きていかなくてはならないのだ。なんだかとっても悔しい。
| comments(0) | trackbacks(0) | 01:49 | category: 本の話 |
# カタチの個人的メモ
かなり前のこと。遅く帰ると、まだ起きていた母親が何やらうれしそうに「ねえねえ、『山寺の和尚さん』歌ってみてよ」という。たいがい帰宅した瞬間には人に話しかけられるのもイヤだしテレビがついているだけで不機嫌になるのだが、あまりにうれしそうなので仕方なく歌ったら「猫をかん袋に 押し込んでポンと蹴って ニャンと鳴くのよー。すごい残酷よね」と、とってもうれしそうにしていた。はぁ…と思い、何度も歌ってみた。自分で口ずさみながら、合いの手の拍子を打つのが大変楽しくなり、以来、けっこう家で歌っている。

この動物虐待っぷりを問題視する人もいるようだ。主張は理解する。猫をかん袋に押し込んで蹴る機会もないだろう。でも、そういう問題ではない気がする。フィクションとノンフィクションの問題なのか、世の中がのっぺりした善意や良心で覆われることへの反感なのか。密やかな残酷な暴力趣味の権利を奪われたくないのか。

という話ではなく「かごめかごめ」って怖いよね、っていう話でもないのだが、「かごめかごめ」にはいろんな説があるが、きっと大した意味はないんだろう。シュールでいい歌詞なのは違いない。先日買った松田行正さんの「和力―日本を象る」は、余(よはく)、格(こうし)など24の日本のかたちの意味を解釈している本だが、その中の「籠(ろっかく)」の章で「かごめ」=六角形について触れており、天の岩戸の伝説になぞらえた「かごめかごめ」の解釈が紹介されていて、面白かった。長くなるので、説明は割愛するけど、この歌はすべて「籠」のアナロジーでできていて、かごめの「め」は「芽」をも表し……という話。

全然話は飛ぶけど個人的には螺旋構造フェチなので、「旋(らせん)」の章も面白かった。そういえば人体って螺旋が多いのだ。螺旋=循環。で、あたしは何故螺旋が好きかというと単に気持ちいいからで、螺旋が見えて来る音楽とかが大好き。螺旋っていう運動はけっこう重要だと思い、先日、野中郁次郎先生の講演を聞く機会があったのだが、やっぱりスパイラルなんだよなあと、ひとり自己満足に浸っていた。
| comments(0) | trackbacks(0) | 23:27 | category: 本の話 |
# 言い訳を考えながら本を買う
一昨日、立ち読みに行ったはずの本屋で萩原朔太郎「月に吠える」の愛蔵版を買った。初版と同じ装丁で、表紙と口絵を担当しているのは田中恭吉、そして恩地孝四郎。田中恭吉が描いた表紙の絵が、2日前にビールを呑みながら描いた落書きにそっくりでびっくりした。まあ、あたしの絵の方はひとつひとつの筒が切断されている上に、全体の形も三角ではなく逆向きの台形なのだが。去年からちょっとばかり当時のことを調べているので、恩地孝四郎なんて「おー!まただ!」と勝手に親近感が湧く。本当は川上澄生が装丁した萩原朔太郎の「猫町」が欲しくて、そのことが頭にあったのに、まあ、いいや「月に吠える」で。と思ってしまったための散財だ。でも、「月に吠える」もきちんと読んだことはないので、いい機会だと自分を褒める。読んだことのない割にはこの題字と言葉だけでも大好きで、この「月に吠える」を見るたびに、あたしの肝には何かが座るのである。乱暴に言えば、グッと来るのだ。



そういうグッと来るモノや文字や模様に出会った時、やっぱり手元に置いておきたくなるので買う。モノの場合は机の周りにゴロゴロ置かれ、紙の場合は机の前や横にペタペタ貼る。会社でも一緒で、もう席が角なものだから、自分のテリトリーでない壁や書棚にまでペタペタ貼っている。「最近さ、そういうのを買って手元に置くのって大事だと思うんだよ」と友人に話したところ「あたしたちはさんざんそれで失敗してきてるじゃん」と返された。もっともである。お互い、モノが多過ぎて部屋が一向に片付かず、毎週末延々と片付けに追われている。スクラップ好き・蒐集好きで、資料集めが趣味。それが昇華される日が来そうにないが、趣味は資料集めってことなら誰も文句言うまい。言わせまい。しかし、毎度同じようなジャンルの本を買っている割には、全く知識として身に付いてないのも気になる。どうしても同じようなジャンルの本を買うのは「これは自分のテーマだ」というのが決まっているつもりなんだけど、それも結局モノとしての本が好きなだけで中に書かれていることに興味ないのだろうか。そんなつもりはないのだが、読んでない本は増えるばかりだ。

あと昨日買ったのは吉本隆明の「日本語のゆくえ」。東工大での講義の内容を載録したもので内容が薄そうなのが気にかかったのだが、立ち読みレベルではいくつか面白そうなことが書いてあった。これが平積みになった目の前の棚に「月に吠える」がささっており、先に「月に吠える」を小脇に抱えたことで気が大きくなったのだろう。あとは、ちくま文庫から出ている吉田健一の「酒に呑まれた頭」。“吉田健一のエッセイ”という時点で、個人的には手堅く無駄遣いの範疇に入らないのだが、これはタイトル買いだ。「酒に呑まれた頭」、最高ではないか。酒は、呑んで呑まれて、呑まれて呑んで、である。呑むと飲むにどういうニュアンスの違いがあるのか知らないが、あたしの中では気乗りのしない場は「飲む」、プライベートな酒は「呑む」であり、酒を飲みたいと思ったことはないが、酒を呑みたいとはよく思う。もう1冊は“今さら!”とお叱りを受けそうなのだが、同じくちくま文庫の「尾崎放哉全句集」。ネットで全句を拾ったため、本を買わなくていい気になっていたのだが、見たら随筆や書簡も入っていたので買った。昔に買った講談社文芸文庫の「尾崎放哉随筆集」と並べて置いておきたいのだが、随筆集はいったいこの部屋のどこにいるのだろうか。

確定申告の資料を整理しながら、これから買った書籍のタイトルくらいどっかにメモしておきたいなと思いました。以上、購入した本の言い訳でありました。
| comments(4) | trackbacks(1) | 23:54 | category: 本の話 |
# 触覚づくしの文章
またも連休が終わりつつある。終わったのかな?夕方、近所の映画館でロジェ・ヴァディムの「危険な関係」を見てきたら、何だか閉塞感が乗り移ってきた。ジャンヌ・モローが好きなのだが、彼女の演技がよかった。音楽担当はセロニアス・モンク。セロニアス・モンクの音楽で展開していくチェス盤をモチーフにしたタイトルバックがカッコ良かったが、今、書きながら、チェス盤ってのはいいモチーフだなあと感心してみたり。演奏はアート・ブレーキー&ジャズ・メッセンジャーズ。黒い音です。

この近所の映画館、古い映画をよく上映している。今週からはアンゲロプロスの「旅芸人の記録」、その後、ゴダールの「はなればなれに」、その後は「大人は判ってくれない」を皮切りにトリュフォー作品。いずれも大昔に見た作品だが、今見るとまた印象が違う。若い頃には目がいかなかった部分に、ちょっとだけ目がいく。例えば、心理的なことに。また見るのも悪くないなあと思う。

今晩読んだ堀江敏幸の「アイロンと朝の詩人」が良かった。49篇すべて読んだわけではないが、あー、今読みたかったのはこういう本だったのだ、と思う。言葉の感覚も文圧(という言葉はないだろうけど)もすとんと心身に染み入るようだ。ほかの人にとってもそうであるかはわからない。「コブタの凡庸」と題されたエッセイでつい涙をこぼしたが、これも決して泣けるエッセイではないと思う。でも、クマのプーさんを愛読している人間なら、グッと胸を掴まれるかも。あたしはコブタになりたいなあと思った。昨日から食物摂取制限&アルコール断ちをしてるけど、目指すはコブタ(そこで「じゃあ、今は大ブタか!」とかチャチャを入れない様に)。っていうか、本質的にはコブタ体質。あと刺さったのは「『言葉』抜いた大人たち」は、ウッ……と来た。

「手を握ること」はたった1ページの文章なんだけど、一昨日の晩に手を握られた夢を見て……(というと、なんだか純情な子みたいで恥ずかしいんだけど、ポイントアップを狙っているわけではなく)夢の中でもすごい安心感があって、起きてもその感覚が手に残っていた。という意味でキーワード的にタイムリー。

思えばいろんな「手を繋ぐ/握る」というシーンがある。真っ先に思い浮かべる手のほか、最近ではカラオケスナックでデュエットを歌わさせられるために手を握られて引っ張られたり、金曜はカラオケボックスの受付で泥酔のあまりひっくり返っている同僚の手を握って引っ張ったり、全くどうでもいいことでも活躍している。水分不足で細い、寝たきりになっていた祖母達の手もよく握ったし、旅先の子ども達の小さい手もよく繋いで歩いた。仲良しだったインドネシアの少年が最終日に涙をこらえながら差し出してきた右手も。と、話をピュアな方向にもっていこうともしてみる。

「手を握ること」を読みながら、作者が書いていることと関係なく、個人的な手の記憶ばかり思い出していたのだが、身体の記憶とか皮膚の記憶って割と残っているもんだと思う。毎日毎日「今日の触覚」だけを詳細に書いたら、けっこうエロい日記が出来上がるのではないか。味覚・聴覚・視覚は言葉との距離感が保てるのに、保てない。不思議だね。いや、書き方次第か。人の気配が濃過ぎてしまうのだろうと思う。
| comments(7) | trackbacks(0) | 01:44 | category: 本の話 |
# 日本の特別地域・足立区
普段口では「気が短い」と言いつつも、それほど他人に対して怒りを露にすることはない気がする。しかし今日、本屋でこれを見つけた時は、瞬間湯沸かし並みにブチッと切れた。「日本の特別地域(1)足立区」(マイクロマガジンシャ)。

“日本の特別地域”だそうだ。注目してくれてありがとう、足立区民一同光栄に思っております、なんて厭味をいう心の余裕はあたしにはない。下品極まりないカバーからして悪意を感じる。だいたい“日本の特別地域”なんていって、ほんとの“特別地域”を取り上げたら差別問題となるだろう。で、その矛先というか対象として“足立区”という単位を取り上げたことは、うまいというか卑劣なやり口だと感じる。プップ怒りながらパラパラ見た。なんだかいろんなデータを取り上げて、いろんなことを言っているようだ。数字で見た足立区はそんなもんかもしれないなあと苦笑する。しかし、この本が“地域批評シリーズ”と謳っていることに気づき、さらに沸点に達した。おそらく最初から結論をがっちり決めてその数字を集めて並べたに違いなく、この程度の作業に“地域批評”なんて付けて恥ずかしくないのかと思う。作者も編集もバカ丸出しじゃないか。いや、外見の煽りように比べたら中はわりとまともなのかもしれないけど、でも、基本的に頭悪いような。

そもそもこの手の本はあまり好きではなく、これが荒川区だろうが墨田区だろうが、基本的な感想は変わらない。ただ手に取るに至ってはいなかったというだけの違いで。昼間たかしよ、あたしが「足立区民だから」という理由で嫁に行けなかったら、おまえがあたしを嫁にもらえ。っていうのも、絶対イヤだからいいやー。もう。なんだか反動で、賢そうな本を1万円分買ってしまった…とほほ。あほだ。

AMAZONに載ってた紹介文はコレだ!
東京23区は世界最大の大都市の中核ですが、区ごとに住民性向、地域性向が大きく異なっています。「〇〇区はガラが悪い」「〇〇区は金持ちが多い」など、区のイメージは多様です。しかし、それは本当のところ、どうなのでしょうか。
本書は、こうした「イメージ」の裏づけ/相反する点の指摘を、詳細なデータをもって行う地域分析シリーズです。第一弾は東京の中で「最も前時代的」と言われる「足立区」を取り上げます。
本当に足立区は「ガラが悪く、遅れている。ヤンキー中心の区」なのでしょうか。本書によって、その全貌が明らかになります。


あ、「イメージ」の裏づけ/相反する点の指摘を、だって。ごめん、本の中身読んでないんです……。ちゃんと分析してくれてるのね。たぶん、読まないけど。

目次はこんなです。
第1章 足立区は本当にビンボーなのか?
・足立区民はガストとマックがお好き
・ディスカウント店のラインナップが一味違う!
・生活保護者の数が圧倒的に多い足立区!


第2章 足立区住民はヤンキーばかりなのか?
・出生率が高い! 出産年齢が低い!=元ヤンが多い?
・大学がない! 大学生もいない! 縁がない?
・私立小学校はゼロ! 学力テストの結果は 23区中ビリ付近?


第3章 足立区はタマゴからマンションまでなんでも安い!
・物価が安い! 東京イチ安い食品と食べ放題店天国!
・家賃も安い! でも「バス〇分」に君は耐えられるか?
・土地も安い! 足立区は東京最後の「マイホーム」約束の地だ!!


第4章 足立区にはなんで電車がないんでしょうか
・自転車立国足立 なんでこんなにいっぱいあるの
・電車の少ない足立区で頼りがいのあるのはバスしかいない?
・国鉄に見捨てられた悲劇の地域 それが足立区


第5章 足立区の未来はバラ色だ?
・これまでのまとめ 結局足立区ってなんだったの?
・損な目にばかりあってきた足立区の歴史を見る
・足立区の将来はバラ色だ! って断言しちゃう

| comments(10) | trackbacks(0) | 21:52 | category: 本の話 |
# 本の本来の姿って?
今日はただ単に、morioさんに捧げるエントリー。のはずだったのだが、いろいろ手元の本をパラパラ見ていたら長年の問題が解けたので、いろいろ。

まずは講談社現代新書問題。以前も書いたけど、そのデザインがここ数カ月で変わっていたらしい。ヒマな時に新書コーナーは流していたつもりだが、全く気づかなかった…。morioさんのご指摘で、初めて帯が異様に太くなっていたことを知った。それは、デザイン的に言えば、たしかに中島英樹氏の当初のデザインコンセプトから逸れているともいえる。

しかし、まさか杉浦康平氏とのイザコザがあった(らしい)講談社が、またここで中島氏と同じようなトラブルを起こすとも思えず、中島氏だって自分のデザインを「はいはい、そうですか」と簡単に変える人とは思えぬが…とググってみたら、現代新書の背表紙が白地に変更されたとのブログを発見した。ほかを見ても、色背表紙は文字が読みにくいとの評価が多く、あたしもそう思ってたし、何よりも色分けの意味がよくわからなかった。もっともそこに意味を求めてしまうのは無粋な態度ということになるのだろうが、実際に自分の書棚に並べてみてもさほどいいものにはならなかった。というのは大袈裟で、並べてキレイというほど揃ってないのが敗因か?

しかし、morioさんのブログを読んだ後に、この本山さんのブログを読んで、そうだよねえ、やっぱり当初のコンセプトからズレてるよねえ。と。新しいデザインの本を手にしてないのに言うのはアレだがそう思った。明日ちゃんと見ますけど。

さらにググっていくと、中島英樹氏本人のブログに辿り着いた。
今までの背表紙は、単に時間が経つと、退色して、タイトルが読めなくなってしまった色があって、決して、過去のデザインに敗北したわけではありません。
それに、僕から、今のままではネガティブキャンペーンになってしまうと、提案したのです。
だから、分かると思いますが、本の本来の姿は帯や表紙を取った姿なのです。
いままでと、ブレてないでしょ?
全文はコチラ

ということらしいです。morioさんの謎は解明してないというか、そっちのけで申し訳ないのですが。

個人的には本の装丁がよくて欲しくなる本はあるんだけども、本の本来の姿は帯や表紙を取ったものというよりも、本の中身そのものという意識が強いかも。でも、それって普通の感覚ではないかな、本読みとしては。またまた比較論になってしまうけど、杉浦康平氏のデザインは、本の中身への意識が強く感じられて好きだった。

出版の現場(はしっこ)にいると、編集者が「今の人は本を読まない!」「本を買ってるのは本がらみの仕事をしてる人だけだ!」と平気でいうのをしょっちゅう耳にする。たしかにそうなのかもしれない。でも、それを前提にしてしまうのはあまりにも哀しい。……と書いていくと話がとことん逸れていくのでやめるけど、今日はそんなこんなで出家でもしてしまいたいような気分になっているところに、これを読んで哀しくなった。なんだかおかしいよと思うのだが、おかしいのは自分のほうなのかもしれない。というか、おかしいのはいつだってあたしなのだ。
| comments(5) | trackbacks(0) | 01:58 | category: 本の話 |
# こよなくやさし繊維質
今日の昼休み、石牟礼道子の本を立ち読みしていたら、目に飛び込んで来た短歌に絶句した。

おとうとの轢断死体山羊肉とならびてこよなくやさし繊維質

石牟礼道子が31歳の時、弟が鉄道事故で亡くなっているそうだ。

妣(はは)たちの国」(講談社文芸文庫)を購入したのだが、その時々に触れている本や音楽やらに影響されやすい性質のため、少し読むのを躊躇している。躊躇しながら先ほどからチラチラ読んでいる。きっと異界に呑み込まれている。伊藤比呂美の「とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起」で伊藤比呂美と石牟礼道子と会う話があるのだが、それがもうすごくて。でも、石牟礼道子は初めて手にしたけど、想像よりも遥かにすごいかもしれない。すごいの意味は後日でありますが、書けないと思う。言い訳をすると、こんな本ばかり読んでいるわけではない。

追記)
本屋に尾崎放哉句集がなかったからこんなことになったのだ。仕方なく、ここのページで尾崎放哉の句をA4二枚にプリントアウト。仕事もせずに読んだりしてみた。
★放哉を探しに行くきっかけとなった「東京たるび」by morioさん
★拙ブログの放哉に関するいい加減な過去ログ
| comments(4) | trackbacks(0) | 01:42 | category: 本の話 |
# 千住から考える
今、出ている「10+1」の特集は「東京をどのように記述するか?」。「InterCommunication」の最新号も「東京スキャニング」だったし、東京論的なもんって今アツいのだろうか。「InterCommunication」の方は、東浩紀と五十嵐太郎の対談があって、おおお!次の「東京から考える」会で使えるネタじゃんと思ったのだが、結局、東京は語らない会になったので披露することもなかった。もっとも「InterCommunication」を読んだことすら忘れて臨んでましたが、はい。すみません。でも、「10+1」でも「InterCommunication」でも、いろんな人の原稿に「東京から考える」の引用(ジャスコ化、テーマパーク化、都市内部の郊外化などなど)が出て来ることを考えるに……あの本の影響力って強いんだ、とも思うし、なーんだ、みんないろんな居酒屋で「東京から考える」会開いてるんじゃん!とか思っちゃう。まあ、我々のように出席者4人全員が片手にNHKブックスを持ち、テラテラ光るホルモンを前に語り合ってはいないだろう。ちなみに「InterCommunication」の方は東京建築+東京写真という記事もあり、いろんな写真家が参加しているので、興味あれば是非。

で、「10+1」。一番読みたかったのは「千住四十五分ー千住を線によって再構築する」という記事だったわけで。この45分というのはつくばエクスプレスの秋葉原〜つくば市の時間。千住はその中間にある。この千住という街は、東武伊勢崎線、常磐線、つくばエクスプレスの都内中心部からの途中駅にあり、相当交通の便がいい街らしく、何よりもそれが街の魅力なんだとか。で、例えば徒歩で45分だとその中に山谷のドヤ街や吉から金八先生のロケ地、尾崎豊の亡くなった「尾崎ハウス」が範疇に入る。自転車で45分だと南千住から隅田川沿いを通って浅草経由で上野に行ける。柴又も行ける。電車だと東武動物公園や取手にも行けるし、恵比寿や下北沢にも行ける。45分の間に千住の人はどのような風景を見て、そこからどのような東京像が浮かび上がるのか。

「そこには、メインストリームのメディアの表象を形作る新宿や渋谷、あるいは銀座や大手町、そしてお台場をはじめとする湾岸地域とはまったく異なった東京像を描くことができる」ってさ。我々、珍獣ですか?と思いながらも、まあ、たしかにそうで。試みとして面白いというか、自分の中で非常に感覚的に感じていた東京論的なものへの違和感を、少しでも正確に捉えようとするとそう考えるのも1つの手だなと思った。思ったわけなんだけど、なんでそう捉えようとする必要があるのかと考えれば、ない。ない気がする。千住に根を張って住んでいる人たちに、「ねえねえ、雑誌に千住載ってたんですよー」ってこれを見せても「なんだい、こりゃ?意味わかんねえよ」と苦笑されそうだ。

あんまり長く書いても独り言のようなものが続くだけなのでこの辺で止めておくけども。結局、あたしが千住という街が好きな理由は、ここかもしれない。なんだかんだでいろんな新しい情報に接し、次々とつくられる流行に接し、これはこれで楽しいんだけど、イヤなのはイメージの強迫観念を持つ人々。住居や服飾、行く店で自分の立ち位置をがっちり守りたがるけど、その選択一つ一つが自分のこだわりでないことに気づかない人々。そんな話を聞いて、あーくだらねえ、あー疲れたと思った時に「なんだい、そりゃ?ははは、くだらねえ!」と心の底から笑える人々がここにいることを思い出す。“はだかの王様”を見て「おいおい!あんた丸見えだよ!だいじょぶかい?」とゲラゲラ笑っちゃう人々は、王様の周囲の人間からすると知性がない上に社会性もない、いわゆる意識の低い国民ということになるのかもしれないが、あたしには必要な人々で、必要な街だなあと思う。これだから「歪んでる」とか言われちゃうのか?
| comments(4) | trackbacks(0) | 11:25 | category: 本の話 |
# 「散歩の達人」から脳内のつぶやき
ayanoさまへ。昨日いただいたコメントへのレスです。

「散歩の達人」って知らない町の特集やってる分にはいいけど、地元の特集だと「え?」って思うことない?その街なりの個性を際立たせてくれるのはうれしいし、切り口もそれなりに面白いんだけど。

先日の東京の話ともかぶるかもしれないけど、自分の街がいろんなメディアに取り上げられる様になったり、mixiでのコミュニティなんかを覗いたりしてると、ほんとに幾層ものイメージがトレペのごとく重なっていくようで面白いなあと思う。

あたしがこの街にずーっと住んでるからと言って、あたしの認識が一番正しいわけでもない。
もちろん、リアルな土地としての街はあるんだけど、代々住んでいる人間、地元で商売やっている人間、朝と夜と週末しかいない人間、mixiなどで地元の友人を作った人間などなど、立場の違ういろんな人間が集まった場なわけで、……うまくいえないなあ。まあ、みんな違うと。街の印象や使い方も違うと。そういうことだ。

すでに“都市情報誌”というジャンルに未来があるのかどうか疑問だけど、少なくとも個人的には、スポット紹介ではなく、スポットを紹介するならそれを取り上げながらもっと大きな全体を見せていきたいなあと漠然と思う。
でも、そうやっていくと、いわゆる「テーマパーク化」してる街以外は、薄ぼんやりとしたものしか残らないし、どこもフラットな印象になるのかもしれない。

あとね、かつては生活者情報と観光者情報ってのが2層分かれてたと思うんだけど、今はネットのおかげで、境界がなくなったと感じる。これはもういい悪いの問題ではなく、そう進んでいくしかないことなんだろうと思う。

例えばさ「三ノ輪の『居酒屋タコ兵衛』のイカゲソは最高!」ってネットで読んだ板橋の人がわざわざ三ノ輪までイカゲソを食べに来る。でも三ノ輪在住のあたしは内心「三ノ輪で生活する中では、ここのイカゲソは必要不可欠だけど、こんなの板橋にもあるだろうが!」と思ってる。イカゲソブログをやってるようなマニアならともかくさあ、と思う。っていうの結構ない?

うちの近所でも有名な焼肉店があって、そこは確かに旨いのね。東京の焼肉好きならみんな知ってるくらいの有名店で、あたしも子どもの頃から通ってる。予約するか並ぶかして入るんだけど、ほかに焼肉屋がないわけではない。
そこでmixiで「あの有名店に行けなくても、ここが旨い!」という書き込みが出て来る。
その“ここ”っていう店はあたしもよく知っている店で、そこそこ旨いのは確か。
その店くらい旨い店はほかにもあるんだけど、なんだかその後「“ここ”に行ってきましたー。美味しいですね!ご紹介ありがとうございます☆」との書き込みが相次いでいるのを見ると、ねえ。っていうのない?その店の前を通るたびに、おおー!mixi景気だねえ、と思ってしまう。

ayanoちゃんやその周囲の人は、本当に美味しいもんを知ってると思うし、あたしはそれはすごく信用してるし、まあ、嗜好が合うといえばそれまでかもしれないけど。ただね、自分に関わるたいていの人のことを好きになるあたしでも、「彼女の薦める店は…」というラインはある。そういう人に限って「美味しいもんしか食べたくないの!!!!」とテンション高く語ってくるので、よけいに鼻白む。っていう個人的な愚痴はともかく…そもそも何が主題なのか忘れた。あ、「散歩の達人」か。都市情報の扱いか。

「散歩の達人」は一見、生活者レベルまで視点を落としているように見えて、ただの奇をてらった観光者視点だよなあと感じることがある。これは個人的な趣味嗜好の問題かもしれないけど、手法として奇をてらうのと、結果として奇をてらったようにみえるのとは大きな違いがあると思うのです。偏見かもしれないけど、「散歩の達人」には前者を感じる。そのサブカル(死語?)ノリが、あの雑誌の良さなんだけどね。

生活も嗜好も多様化していて、ネットがそれに拍車をかけている中で、トレペの薄い層を1枚作る作業ってのはアリなんだけど、いろんな1枚1枚を重ねたところで浮き上がってきた図像を薄めることなくカタチにできないかなと思う。で、それは「ディープだよね」って使う場合の“ディープ”とは違う深さや濃さがあるんじゃないかと思う。

いろいろ書いたけど、すべて自分への課題だと感じています。
| comments(3) | trackbacks(0) | 13:16 | category: 本の話 |
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