まだ小学生の頃の話。4畳半と6畳がつながった和室があり、4畳半に弟が、6畳にあたしが寝ていた。ある晩、今から思えば「さあ、もう1軒行くか!」だけど、小学生にとっては真夜中に当たるような時間帯のこと。隣の部屋の弟が「鐘の音がするよ……」と、不安そうに声をかけてきた。「ええ?全然聴こえないよ。鐘の音ってどんな?」「ボーンボーンって……聴こえないの?」「うん、全然聴こえない」。そう言って、あたしは布団の中に隠していたポータブルテレビのスイッチをそっと切ったのだった。何の番組だか知らないけど、寺の鐘の音が聴こえたので、こりゃいいと思って咄嗟に布団の中に隠したのだった。
しかし、そんな悪意のない姉の悪戯も、弟にとっては人生最大の怪奇現象となった。弟は時折「あの時は怖かったよ。あれ何だったんだろう?」と言うのだが「ああ、何かそんなことを言ってたことあったよね」で突き通していた。しかし、それから十年以上経ったある日、とうとうネタをバラしてやった。あの時の弟は烈火のごとく。たいへんに怒ってました。
なんでこの話を思い出したかと言えば、先日skypeで友人と話していた時のこと。もっともskypeで話すのはほとんど皆無なのだが、年に数回ほどそういうことがあり話していた時に、たまにノイズが入る。そのノイズは鈴の音だ。遠くからシャンシャンシャンシャンという、ちょうどサンタの乗ったソリを引くトナカイの鈴の音と一緒なのだ。実際に、それを耳にしたことも見たこともないけども。で、その鈴の主が段々近づいてきたなあと思うと、また遠くへ去っていく。そんな鈴の音で、それが数回繰り返される。skypeで通話していると、よくあること。もちろんただのノイズで、さっきネットで見たらほかにもそれを聴いている人はいるんだけど、何かこうね、気配、というか空気の固まりみたいなものを感じないでもないのね。うそだけど。で、話を戻すと、会話してる相手が「なんか音聴こえない?」というので、咄嗟に「いや、あたしには聴こえないけど、どんな音がするの?」と言おうとしたけど、弟のことを思い出して速攻改心し「聴こえるね。鈴の音が」と素直に言ってみた。大人への階段を登った気分。
広い場所で、遠くから聴こえて来る音が結構好きだ。例えば土手で聴く、遠くのグラウンドの野球をする少年のかけ声やボールを当てた時のバットの音。そこにボートのモーター音や人の名前を呼ぶ声、小さい子のはしゃぐ声、鉄橋を渡る電車の音がかぶる感じ。例えば砂浜で聴く、遠くにいる子ども達の嬌声。波の音や安っぽい歌謡曲、いろんな音が混じる感じ。すべての音は遠くから来て、広い空に拡散していく。自分にとって一番心地のいい音って、そういう音だと思う。音自体がどこかに吸い込まれていくようで、自分も吸い込まれてしまってもかまわないけど、ここに在る。つまり、内と外、自分と世界との境界線が曖昧になるような立ち位置に、その音が運んでくれるのだ。そんなことを書いているのは、さっき、「魚座の人間は自分と他者との区別が曖昧です」という星占いを目にしたからに違いないんだけど。
数年前、北海道を旅した時のこと。あれは支笏湖だったか、何湖だったか。夜に辿り着いたはいいが、湖まで数mという湖畔というか水際のキャンプ場には、夏だというのに数張のテントしかなかった。周囲には深い闇が広がっていた。お腹が空いたが、店がどこにあるかもわからないし、少なくともコンビニのようなものはなかった。「どうしようねえ」と目の前に漆黒の闇とともに広がる湖面を眺めながら一服していると、遠くかなたから祭りのような音が聴こえてきた。「祭りやってる?」「祭りに行けば食べ物がある!」と、すぐさまバイクで音の聴こえる方向に真っ暗な道を走った。湖周辺をぐるりと回って辿り着いたところには、大型ホテルがいくつかあった。その狭間に閉店間際の酒屋を発見し、ワインとビールとつまみを買った。音の源はその近くの広場にあった。ちょうど盆踊りの日だったのだ。
会場に足を踏み入れると、町の青年部のような男性が、プラスチック容器に入ったビールをくれた。今まで食べたことのないくらいに甘いトウモロコシを食べた。近くのベンチに座り、盆踊りを眺めながら呑み喰いをした。合宿か何かでこの地に来たと思われる女子学生たちが、揃いのトレーニングウェアで楽しそうに踊っていた。明るい提灯に照らされて櫓の周りを踊る人々と、少し離れたところでそれを見ているあたし達の間には、隔たりがあった。数メートルの距離なのに、別世界の幻を見ているような不思議な感じがした。そして、あたしたちの後には深い深い闇をたたえた湖が広がっている。振り返らずとも、その存在を感じる。ギリギリの際(キワ)にいるような感じだった。その時、目の前で繰り広げられていた盆踊りは、半時計回りだった。「たしか盆踊りって、あれだよね。精霊絡んでるよね」「反時計回りってことは、逆の時間の流れってことか?」しばし、ふたりで盆踊りについて根拠なく話していた。「帰ったら、盆踊りについて調べよう」と言ったが、それからとくに調べてはいない。調べ始めるとズブズブといきそうな世界ではある。
テントに帰ってから酒盛りをした。適当に散らかしたまま寝ていたら、朝、ゴソゴソと音がした。外に出ると、猫が慌てて去っていった。しかも、鮭とばを袋ごとくわえていきやがった!さらに、あたしの寝袋の袋もなくなっていた。
オカルト的な話ではなく、何だか妙な境界にいるような心地のする場所がある。何が起きているとか何がいるとか、そういう話ではない。この湖畔での思い出はそうしたもので、その類いの記憶をたぐりよせ、それらの空気を思い出すのが、あたしの好きなことのひとつだ。なんか暗い?でも、今日も闇はすぐそこにある。