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# 了見の狭いやつら
 先日弟&嫁が来ていたときのこと。
父が「ちっちぇーやつらがよぉ〜」と何だか忘れたけど、話していた。
「1Q84」を読んでいる嫁とあたしは
「あ、“リトルピープル”のはなしじゃね?」
と、クスクス笑っていた。
「“ちっちゃい人たち”がいたの?」
「見たの見たの?リトルピープル見たの?」
「空気さなぎは?空気さなぎ見た?」
「リトルピープル?リトルピープル?」
「え、それって妖精?妖精?妖精?」
全然関係ないけど、うちの家族の会話の基本は、同じ言葉を3つも4つも早口に重ねることかもしれない……。「のいるこいる」ばりに。

うっかりのいるこいるの映像見てたら、何を書きたいかわからなくなった。
また「妖精」と聞いて、父の顔が曇ったのだった。何度教えても「妖精」を覚えないのだ。きっと幽霊が嫌いな父だから、なんだかよくわからない妖精は、とってもブキミなヤツなんだろう。何度も何度も父に妖精の説明をした。「すごい小さくて人間でも妖怪でもないものなんだよ」。しかし、果たしてそれで想像できるもんだろうか。その説明を聞いて父の頭に浮かぶ妖精という生き物はどんなものなのだろうか。しかし、想像力も豊かとは思えず、絵心もない父である。彼が描き出しているであろう父の妖精像は一般人とかけ離れたとんでもないものなのではないかと思うと、ぶるりと震えがくる。もしくは本当に何も想像できず、真っ白か。

あたしの中ではウスバカゲロウのような羽もついているイメージなのだが、たとえ羽が付いていなくても、仮に生でそれを見た時、あたしはそれを「妖精だ」と認識できる気がする。その認識がいいのか悪いのか。何かを見誤るのではないか。そんな気がする。

ちなみにリトルピープル。口から出てきたりしているのだが、あたしのイメージでは鼻の穴に住んでいることになっている。なぜか。で、5人のリトルピープルがあたしの左右の鼻の穴を行ったり来たりして生活しているわけよ。で、そのイメージはこんな感じ。おめでたいぜ、あたし。
| comments(5) | trackbacks(0) | 00:33 | category: 言葉/言語 |
# 苦手な下ネタを克服する
先日、職場の人と飲んでいた時に「きみが話すと普通の話も下ネタに聞こえる」と言われ、つくづく自分が可哀想になった。「あたし、下ネタ話したことありますっけ?」と問い返すと、もしかしたらないかもしれないけど、そういうイメージがあるのだという。まあ、突っ込まれる前に言うと、決して下ネタを毛嫌いする人間ではないのは確かだ。例えば、誰かがちょっと下ネタっぽいことを言った際に、それにかぶせてまた言ってしまうことはある。これは、負けず嫌いに起因するのかもしれないし、順応性の高さかもしれない。いわば、よく言えば「相手のストライクゾーンに合わせて勝負する」わけで、どっかの国の五輪代表とは違うのだ。このことについてはストライクゾーンへの不満を言うことへの不満以上に言いたいことはいっぱいあり、現にこの2日間、悪口雑言の限りを尽くしたので割愛する、まじで。もしあたしが下ネタっぽいことを言うとしたら、生物学的または宇宙規模レベルでの下ネタ、ちっぽけで滑稽で悲哀をたたえた存在への愛すべき下ネタを言い続けたい。と、こんな下ネタへの心意気を見せてどうするのだ、という展開になってきた。

先日、お江戸日本橋亭に立川談笑の独演会に行ってきた。ところで書き忘れたが、先日は大銀座落語祭で「米朝イズムの会」に行った。米朝一門の会で我らが千朝さんがトリを務めた。地味な会かと思いきや、客席は開演前から椅子がないと大騒ぎなほど大盛況で、出てきた人、いずれも際立った個性があって見応えがあった。この件はいずれ。また、談笑の独演会の翌日には会社をズル休みして鈴本の納涼寄席に行った。今週木曜はまたありえない一席があるのだ。何を言いたいかと言うと、意外に落語好きなんですよーということ。ではなく、談笑だった。談笑の独演会は初めてだ。で、2席やったのだが、1席目がぞろぞろという話。このリンク先の一番下にあるドイツの話を読んで、おったまげた。韓国の五輪選手の名前に爆笑したりすることはあれど、キューバのフィデル・カストロの名前を慎重に口に出すように心がけていたのだが、その努力が水の泡になったような大らかさがある。小さな子どもがゲラゲラ笑い続けそうな話だ。こういう性癖はまったく苦手なのだが、小さな子どもは概してこの手の話が好きだ。もちろん性癖というものではなく、ただ単におかしな存在なんだろう。あたしも先週、女子トイレに行ったら1つしか空いておらず、そこに入ってから「すべての個室で排泄が行われているのか」「で、涼しい顔でデスクに戻るのか」とかいろいろ考えたら、妙におかしくて仕方なくなった。なんとなく、ただみんなリアルに考えないようにしてただけなのかなと思ったら、その嘘くさい努力にまた笑いがこみ上げてきた。

では、話を戻すが、ゲルマン民族がその手の話が好きだとしたら、なぜ彼らはそうなのか。リアリストなのか、人間の構造を知った上での諧謔なのか。答えがわからないので話を逸らすわけではないが、先日、大麻で若ノ鵬が捕まった翌日、彼の挙動不審を示すものとして、「横綱・白鵬へのぶつかりげいこで『うんこ漏れた』と意味不明な言葉を発し、自らけいこを打ち切るという奇行」というエピソードが紹介されていた。ネタとして読者の食いつきはいいとは思うのだが、果たしてそれと大麻にどれほどの関連性があるのか。どこかでも書かれていたが、「うんこ漏れた」というのは意味不明なばかりか、ほんとはそれ以上でもそれ以下でもない言葉なのではないかと思うのだ。本人のみぞ知る。
| comments(4) | trackbacks(0) | 02:40 | category: 言葉/言語 |
# 田村隆一展へ行く
今朝は起きたら10時をとうに過ぎていた。のこのこ会社へ行くと、周囲の人間も寝坊したらしく「11時まで寝ちゃってびっくりした」「11時半に目が覚めてびっくりした驚いたよ」という被害報告多数。今日は地球の何かが狂ったのだろうか。みんなの周りでも同じようなことが起きていたのだろうか。ニュースを見たが、そのことには触れずじまいだった。

現在、鎌倉文学館で、田村隆一展が開かれている。田村隆一は大好きな詩人のひとりで、今回これが開かれているという話を聞き「絶対行く!」と宣言していたら、関係者の方に招待券をいただいてしまった。田村隆一はおろか詩の話すら友人とあまりしたことはなく、少々遠慮気味にヒデさんとクーシュカに行きたい旨を伝えたのだが、快く付き合ってくれた。恥を忍んで告白すると、タコ壺というこの名前は一瞬の思いつきとはいえ、かなり自虐的に付けたタイトルだ。意味は言わずもがな、かもしれない。数年何事もないように続けているようだが、一度だけタイトルを替えた。腐敗性物質とした。ご存知の方はご存知の様に田村隆一の詩からとったものだ。自分としては思いを込めた言葉であり、それゆえ、その拝借した大きなタイトルの前に何も書けなくなった。数日であっさりタコ壺に戻した。戻さなければ、書く内容や文章のトーンは変わっていたかもしれない。いや、変らないか。

そんな自分の話はどうでもよくて、田村隆一である。長身でスラリとした体躯、ダンディな出で立ち、酒を愛した人、洒落ていながら鋭い言葉を繰る詩人……そんなイメージがあるかもしれないが、その美意識というかダンディズムに囚われていると田村隆一の詩の本質をスルッと見逃すことになり、だいたい自分は他人と田村隆一の話なんてしたことがないので、どういうイメージを持っているのか知らないのだが、田村隆一は知っているけど知らなかった人にとって、この展覧会はとても有効ではないかと思う。鎌倉文学館自体が小さいところで、その展示の半分は常設であろう鎌倉に関連する作家たちの資料である。田村隆一の展示は小さな2部屋だけだ。しかし展示の編集とテキストは後藤繁雄、アートディレクションとデザインは中島英樹と、やたら豪華だ。ボリューム的には小さいが、後藤繁雄がとった編集方法とそのテキストは、田村隆一によく合っていた。というか、自分より後藤繁雄の方が何百倍も何千倍も田村隆一を知っているのだけれども。中島英樹のエッジの効いたデザインもよかった。

田村隆一が残したたくさん詩の中から、後藤繁雄は「言葉・世界・物」「詩と白」「死とエロス」「肉眼」「旅人」「酒」「生と生活」「時」「自然と鎌倉」「荒地で」というカテゴリーを切り口とし、それぞれで詩をいくつか紹介していた。ひとつひとつ読み、感じ、考え、反芻していくと半日以上は掛かってしまうかもしれない。それはあとで田村隆一の詩集を買って読めばいいと思う。展覧会で紹介したのは60篇だそうだ。

“はじめに”の長い文章の中にもあったように、展示は田村隆一の「生々しさ」を伝えることにフォーカスされている。何度もいうようだが、ボリューム的には少ないものの、良質な展覧会だった。生きることを見つめ自らも生きた詩人の言葉は、鋭く強く優しい。これを見た少しでも多くの人が田村隆一の詩集を手に取るといいなあと思う。言葉に敏感でありたい、言葉の力を信じると言いたい人は少なくないと思う。そういう人こそ、1冊の詩集を徹底的に読むべきだと思っている。血反吐を吐くように言葉と向き合う真摯な姿勢に、商人や趣味人は到底叶わない。せめても自分たちのレベルで真摯に向き合うことはできるかもしれない。しかし、言葉よりも前に生があるだろう。言葉ばかりを考える前に、精一杯生きやがれ、とたまに言いたくなる。
| comments(0) | trackbacks(0) | 05:21 | category: 言葉/言語 |
# 伝わる意志のない言葉のカタマリを考える
LSTYさんのブログを読んで、あたしも十庵さんのブログについて書きたくなった。本当はコメント欄に書いていたんだけど、長くなったのでこちらに書く。

十庵さんのブログは読む価値のあるブログだった。価値の有無を言うと感じの悪い方向に話が進むので表現を変えると、読んでたいへん刺激を受けるブログだった。アレをオカズにいくらでも書きたくなる、そんなブログ。十庵さんの文章はいつだって、自分の頭で考えたことを自分の言葉で表現し、ユニークな展開をみせていた。毎度、すごいなあと感心するのだ。それほど更新を楽しみにしていたブログが、更新中止ならともかく、過去ログまでなくなったのは本当に残念でたまらない。LSTYさん同様、アドレスは知っているのにメールはまだ送っていない。あたしの場合は今送っても「なんでですか!?」「再開してくれ!」としか言えないので。でも、十庵さんは絶対に書き続けるタイプの人だ。いつかどこかで再開してくれると信じている。もうどこかで再開していればいるかな、と思う。

LSTYさんは十庵さんがブログをやめた原因を、はてなで繰り広げられたコリクツ問題と推測されていた。残念ながらか幸いなことにか、あたしは十庵さんがはてなで地味にやりあっていたことは知らなかった。ただ、十庵さんがブログに辟易してる風は十分ありましたよね。

というような調子で、呑気なあたしは何も知らないので、十庵はてな事件を横において話を進めると、LSTYさんが語っているコリクツの話は大筋で同意。

コリクツで固められた文章というのは、所詮自分を守る方にしか力が注がれていないものが多いためか、他人が読んでも頭に入らない。つまり何も伝わらない。伝わってない文章が他者を動かせるわけがない。動いたとしたら、それは言葉で動いたのではなく、外見上だけ言葉のフリをした不愉快な行為が動かしたもの。エントリーがコリクツで、コメントもコリクツで、というブログをたまに見かける。そのやりとりがコリクツ遊びといってしまえばそれまでだが、他人と対話する意志のない他人同士の言葉のやりとりに、遊びという要素を、あたしは一切感じない。まったく興味ない。

また、当たり前のことだが、理屈を並べることと理性はイコールではない。よって、理屈を並べることの反対に感情的になることがあるわけではない。理屈を並べて感情的に振る舞う人間のいかに多いことか。そりゃそうだ。理屈なんてのは、自分を合理化するための手段に過ぎないのだから。理屈を並べれば理性的に見えると思っている人がいる。しかし、言葉が伝わらないのに反比例して感情的な面が浮き彫りになる。会話でも文章でもそうだ。本人が主張したい以外の、本当はそう見せたくないものがいっぱい伝わってくる。あれは興味深いし、気をつけなくてはいけない。

言葉なんてもんは上手く使えば、きっと強力な武器にも薬にも何にでもなるのだろうと思う。でも、そう使いたくても使えない人が大半だろう。上手く使うのは本当に難しく、面倒くさがりのあたしは地雷を日々踏んで歩いている。議論ベタで理屈をこねる人って、例えはあまりうまくないけど、あやつり人形を使おうと思ったらあんまりうまく使えなくて、そのうち人形に糸が絡まっちゃった。面倒だから人形ごと相手に投げちゃえ!エイ!って感じか……違うか。ちなみにあたしは理性もなければ議論も苦手で理屈をこねるのも下手。だからすぐ人形を投げちゃう。もし、投げていることに気づいてないとしたら、あまりに滑稽で哀れだ。

デイリー投稿ウィークだが、本日は呑んでくる可能性が高いので、朝に投稿した。本日のタスク完了。折しも偶然、LSTYさんも「書き続けることですよ」と書いていた。その意図とあたしのデイリー投稿ウィークの意図は異なるのだが、あながち違うとも言いきれないのかもなあ。と書きながら、十庵さんがブロガーの繋がりってなかなか生まれないと書いていたことを思い出し、この様子をシメシメと見ているのではないかと思った。これ、十庵ブログ交流陰謀説ね。
| comments(3) | trackbacks(2) | 04:37 | category: 言葉/言語 |
# 貢献するという態度について
短気だと言われ続けて、はや三十年弱。子どもの頃は牛乳大好きだからまだよかった。しかし、カルシウム不足でないかと言われ続けて、はや数年。はっ!これって体言止めか。と、誰にも意味がわからないような言葉をつぶやいてみる。

今日は、いろんな会社のホームページのCSRコーナーにある「環境への取り組み」を数時間読んでいた。いい取り組み、どうでもいい取り組みがいっぱいあった。さらにエコグッズやエコライフやロハスのサイトを見ていた。商売っ気がムンムンするサイト、誠実さの伝わるサイト、ちゃらく気取ったサイト、スピリチュアルな域までいってるサイトなどを徘徊した。

大義名分的な要素が強いとはいえ企業が社会貢献を謳うのは理解できる。エコが地球に優しい活動であるのも百歩譲って理解した。もう各方面から「もうチャラチャラとエコをファッション感覚でとりあげてる場合ではない!本当にやばいのだ!」という話を聞くので、それも言語としては理解する。「言語として理解する」のと「言葉として理解する」のって、一緒のことなんだろうか。難しいことはわからないし、正確なことはわからないのだが、自分の中ではニュアンスが違う。前者は情報処理で、後者は…なんでしょうね。いい悪いとか抜きで、その内容をしっかり受け止める感触がある感じかなあ。

という話ではない訳で、エコ系サイトに「あなたもこうすれば社会に貢献できるのです」というような言い回しが多く見られたのが、なんとなく腑に落ちなかった。エゴイストからエコイストへ(英語としては間違った表現)、というムードなのか。じゃあ、いっちょここで社会貢献するか!と、背中を後押しするような一言ではない。少なくともあたしの背中は押されない。「あなたもこうすれば幸せになれるのです」「あなたもこうすれば恋人ができるのです」…と、「あなたもこうすれば○○○なのです!」という言い回しそのものにカチンと来るのかもしれないけど、「あなたもこうすればお腹いっぱいになれるのです!」だと、普段からお腹いっぱいに食べてるからカチンとこないもんだなあ。そうなると、自分が不足している箇所を指摘されているからカチンと来るのか。つまりカルシウムが足りないのか。世の中の人々はそんな社会貢献したくてしたくてウズウズしているもんなのか。あたしには社会貢献欲が足りないのか。

書いていて、そもそも社会っていうのがよくわからなくなってしまったが、世の中がこうならいいのに、とか、こういう世の中になるといいのに、とかいうものがないわけではない。しかし、仮にそれに向かって何かをしたとしても“貢献”とは思わないなあ。何かゆるぎない価値や信条に貢献するのはわかるけど、流動的なもんに貢献しないでしょ。でも、その社会や世の中と言われている大きなかたまりに向けてるから貢献なのかなあ、とか。ぼやんぼやん考えてみた。

「あなたもこうすれば○○○なのです!」で思い出したのだが、朝、ネットのニュースで「フジテレビが江原啓之氏の霊視を“非科学的”と反省」というような見出しを見て、なんだか極端から極端に言って危なっかしいなあと思った。霊能を絶対的だと思うのもわからないし、非科学的だからNGというのもわからない。しかし、実際にフジテレビのサイトで報告書を見てみると、そんな問題はいっぱいある問題のうちのひとつで、たしかに“非科学的な根拠の薄いテーマを題材にした番組制作に対する一層の注意喚起が不可欠”との一文はあったが、この「ハッピー筋斗雲」という番組がいろんな問題を抱えていたことを知った(番組は見てないんだけど)。どの問題点も目新しいものではないのだが、なかなか興味深かった。PDFだと13ページくらいありますが、興味のある人はぜひコチラで。
| comments(0) | trackbacks(0) | 01:25 | category: 言葉/言語 |
# そりゃ、電車の遅れは客のせいだよ?
JRの終電で帰宅したら、途中駅で電車が長く止まった。接続待ちかと思っていたら、大音量で「車内点検でしょうか?」と車掌の声が車内に流れた。おいおい、実況中継気取りかい。そんなこと尋ねられてもわかんないよ。それとも、マイクの切り替え忘れか?(間違いなく後者)と、ムッとする。だって早く帰りたいんだもん。

またしばらくしたら、車掌のアナウンスが入った。「ただいま車内点検をしたいとう駅員からの情報が入っております。車内点検のため、少々停車いたします」と。“車内点検をしたい”という要望を車内の人間に伝えられても、悔しいことにこちらにYES・NOの選択権はないのだ。まったく、くどい日本語だ。2番目の文だけでいいではないか。と、またムッとする。だって早く帰りたいんだもん。

そして、またしばらくしたら、鼻息のような息切れのような、とにかく息の粗い雑音が入った。車掌のアナウンスである。「(ハァハァ)えー電車に乗る際に(ハァ)物を落とした方がいらっしゃいました。(ハァ)そのせいで遅れました…あぁ…お客様には深くお詫び申し上げます(ガチャッ)」。ムッとする気も失せて、軽く驚いた。

サービスを提供する側と受ける側の関係で、受ける側がエラくしていいとは思わない。「こっちは客なんだぞ」という言い方は生理的に嫌いだ(実家が商売やってるからかもしれないけど)。しかし「そのせいで遅れました」はないだろう。事実はそのせいで遅れたのは知っているけど。せめて「そのために」。または「その方に代わって深くお詫び申し上げます」まで突っ走れ。

あと、「先ほど車内点検と申したのは駅員の誤情報で、正しくは車外点検であります。駅員に代わって深くお詫び申し上げます」と付け加えろ、と。細かい作業続きなので、細かいことがどうしても気になって仕方ない今週。
| comments(0) | trackbacks(0) | 02:44 | category: 言葉/言語 |
# なんでも××××
私の本業は詩人です。今年の目標のひとつは萩原朔太郎賞を穫ることです。と、詩なんて書いたこともないのに言ってみる。昨日、人のブログを見ていたら、あたしの好きな詩が載っていたので、あたしもコピペさせてもらいます。

「なんでもおまんこ」谷川俊太郎

なんでもおまんこなんだよ
あっちに見えてるうぶ毛の生えた丘だってそうだよ
やれたらやりてえんだよ
おれ空に背がとどくほどでっかくなれねえかな
すっぱだかの巨人だよ
でもそうなったら空とやっちゃうかもしれねえな
空だって色っぽいよお
晴れてたって曇ってたってぞくぞくするぜ
空なんか抱いたらおれすぐいっちゃうよ
どうにかしてくれよ
そこに咲いてるその花とだってやりてえよ
形があれに似てるなんてそんなせこい話じゃねえよ
花ん中へ入っていきたくってしょうがねえよ
あれだけ入れるんじゃねえよお
ちっこくなってからだごとぐりぐり入っていくんだよお
どこ行くと思う?
わかるはずねえだろそんなこと
蜂がうらやましいよお
ああたまんねえ
風が吹いてくるよお
風とはもうやってるも同然だよ
頼みもしないのにさわってくるんだ
そよそよそよそようまいんだよさわりかたが
女なんかめじゃねえよお
ああ毛が立っちゃう
どうしてくれるんだよお
おれのからだ
おれの気持ち
溶けてなくなっちゃいそうだよ
おれ地面掘るよ
土の匂いだよ
水もじゅくじゅく湧いてくるよ
おれに土かけてくれよお
草も葉っぱも虫もいっしょくたによお
でもこれじゃまるで死んだみたいだなあ
笑っちゃうよ
おれ死にてえのかなあ
| comments(2) | trackbacks(0) | 11:06 | category: 言葉/言語 |
# “伝えたいこと”はあるのか
本屋に行って本をいっぱい買う。11冊持って街を文字通りフラフラ歩いていたら、街宣車の音。フラフラしたまま近寄ると、南北にプルトニウム反対の市民運動系デモ集団が歩いていた。そこに右翼の街宣車が。いい光景なので、見入る。

街宣車は言うまでもなく軍歌。一方、デモ集団は「オーシャンゼリゼ」の替え歌で「オー再処理」とかいう歌を大音量で流している。もう音だけでも阿鼻叫喚の巷と化していた日本橋。さらに街宣車側から拡声器による市民団体攻撃が始まった。「あのプルトニウム反対と言っている人たちはキチガイです!みなさん、騙されないでください!」などなど。“みなさん”に相当する人間はその場に5−6人しかいないのだが、騙されるも騙されないも、どちらの主張も部外者には伝わってきてはおらず、伝わろうという意志のない言葉にしか聞こえないのが本当のところだ。

たぶん通りすがりの人間の中で、何を言っているのか聞こうという意志があったのはあたしだけだったと思う。ただの野次馬気質だけども。そういう「ちょっとだけ耳を傾けてみよう」にも届かないデモも街宣車も、どちらの活動もやる価値なしの自己満足に過ぎない。いや、デモや街宣車に反省を促しているのではない。単に自戒の念でそう思った。伝わらないことに苛立った時、それを他人のせいにしてないか。伝える努力はしているのか。そもそも伝わらなくていいと投げていることもあるのではないか。大いにあるんだよなあ……。しかし、こう考えてしまうと、本来口数が少ないのが余計無口になってしまうので、そのあたりもほどほどにしなくてはいけないのだが。
| comments(4) | trackbacks(1) | 03:16 | category: 言葉/言語 |
# 不可視なちゃぶ台、不可視な沈没
昨日、職場でちゃぶ台をひっくり返した話を書いたのだが、「いやー、でも、ちゃぶ台なんてないでしょ?」と冷静かつ知的な目線で苦笑された。「いいや!目に見えないちゃぶ台がそこに確かにあった。だから縁をつかんでひっくり返したのだ」と力説したところ、「あー、ちゃぶ台ひっくり返すのって大事かも」と納得していただく。“ちゃぶ台返し”と“駄々をこねる”。実は十庵さん(おっと!ブログ再開しましたね)がmixi日記で小沢辞任の日につかっていた言葉だが、昨日はまさにオザワったあたしである。ちなみに“アベる”“オザワる”“KY”、いずれの言葉もセンスのかけらもない。

そのちゃぶ台返しのきっかけというのは、ホントにどうでもいいことで「早く原稿を仕上げろ」と言われ「はぁ?原稿なんて書いてられん!原稿なんて集中しないと書けん!そんな気分じゃない!」と。こう再現して今思った。まったくもって何様なんだ?と。結局、原稿に手をつけないまま職場を出て、家でも書かず、今日朝書いたらスルッとできた。で、「できました〜」と見せたら、なかなかもって良いということでスルー。上もあたしもニコニコで、目に見えないちゃぶ台はすっかり消えた。どうにもこうにも原稿。書くのは人一倍早いのだが、書く気になるまで非常に時間がかかる。と言えば聞こえはいいのだが、要はギリギリになるまで手をつけられないのだ。ついでに言えば原稿の善し悪しというのはあるのだが、その人の文体・クセがある。自分との相性の善し悪しもある。フラットな目で判断するのはいまだ難しいと感じる。

で、本日の議題はちゃぶ台と沈没だった。話している相手が沈没という単語を出したので「うーん!あたし“沈没”って言葉、大好きなんですー!」と反応してしまう。好きなのだ。「ああ、もうダメかも」と「ああ、もうこのままがいい」が混在した感覚。でも海底に着いちゃったらそれから先はないわけで、あくまでも沈没。一緒に沈没を楽しめる人っていうのは、とっても大切な人ですよ。ああ、そうだよね。ということで帰って来たのだが、双方飲み過ぎて、ほぼ各自撃沈しているのではないかと思う。
| comments(2) | trackbacks(0) | 01:07 | category: 言葉/言語 |
# モノバサミがあること
今日は帰りの電車が数分遅れて運行していた。乗っている最中「後続の列車でモノバサミがあったため時間調整があり…」と何回かアナウンスが流れた。そのたびに洗濯バサミと布団干しバサミの間の大きさの“モノバサミ”がドアの間に挟まれている様子がフッと頭に浮かんだのだが、よく考えたら“モノバサミ”なんてモノはないことに気づいた。いや、あるのかもしれないが、あたしの中のモノバサミは、ちょうど手のひらくらいのプラスチック製で水色に塗られているのだ。本当のモノバサミはどんなものなんだろう。

もし、仮にモノバサミというものがなかったとしたら、この場合、車掌のアナウンスの中で使われてるモノバサミというのは鉄道系の業界用語で、モノを挟むこと→運行に支障を来す原因となる出来事、ということだろう。そういう業界用語を一般に使うのもどうかと思うが、ここで注意しなくちゃいけないのは、それに伴う動詞は「起こる」ではなく「ある」という点だ。あまり細かい説明を長々としても仕方ないのでやめるが、ただ単にそこに「ある」という、この単語にぐぐいと心を傾けていくと、そこに静謐な空間が広がってこないだろうか。今日はこの“モノバサミ”が“ある”という感覚にひどく惹かれたのだが、そんな世界は妄想に過ぎない。

混んだ車内でそうこう考えていたら、今日、冗談めかして言われたいくつかの事柄、よく意味がわからず「ふふん」と鼻で笑っているのか愛想笑いなのかわからない笑みで適当に返した事柄の意味がフッと解けた。金曜にあたしが呑みながら言った事柄への返答だったのだ。週末を挟んで中2日で言われてもわからないよ……とほほ。人が聞いたら普通の会話に聞こえても、実は当人は非常に重さのある会話をしていることは多々ある訳で、この場合、1kgの重さを50kgに取り違えることは迷惑だが、50kgを1kgに取り違えるのも失礼に値する。適した重さの内容を中1日で返さねばと思いつつ、なんで我々はこんな面倒なコミュニケーションをしてるんだろうとも思う。「モノバサミがあった」と言ってしまえる乱暴さが、今日は少々羨ましい。
| comments(7) | trackbacks(0) | 00:03 | category: 言葉/言語 |
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